10年後のトレンドを見越して日本酒の酵母を開発する〜京都の酒造りを技術で支える京都市産業技術研究所〜
京都市産業技術研究所のバイオ系チームでは、日本酒用の酵母の開発などで酒造りを技術で支えています。バイオ系チームの山本さんと廣岡さんに、どうやって酵母を開発するのかという話題から日本酒の未来まで、幅広いお話をお伺いしました。
京都市内にある産学公連携活動拠点、京都リサーチパーク。その一角の存在感のあるビル。今回訪問した京都市産業技術研究所です。その中で、酒造りを技術で支えるバイオ系チームの研究戦略リーダー山本佳宏さんとチームリーダー廣岡青央さんにお話をお伺いしました。
京都市産業技術研究所バイオ系チーム
京都市産業技術研究所は染色、繊維や酒造りなど京都の伝統産業を支える機関です。今回訪問したバイオ系チームは、伝統産業である酒造りを技術で支える部署。主に日本酒メーカーの技術支援や酵母の開発を行っており、「日本酒造りに新しい技術を入れていく」ことが役割だと廣岡さんは言います。
酒造りに使う「酵母」
日本酒は米と水を原料にして微生物の力を借りて造られます。米麹に含まれる酵素が原料の米のデンプンを糖に分解し、酵母が糖からアルコールを生成。日本酒の香り成分をつくりだすことも酵母の大切な役割です。酵母の種類によって日本酒の香りがかわってくるのです。
かつては酒蔵内で空気中に浮遊していたり桶に存在する酵母(「蔵付き酵母」といいます)を使っていましたが、明治時代の終わりごろから良質なお酒を醸す酵母を採集して培養し、全国の酒蔵に頒布するようになりました。いまでは、ほとんどすべての酒蔵でこのようにして培養された酵母が使われています。
預かり酵母
バイオ研究チームでは、酒蔵のために酵母を培養し保管しています。これは「預かり酵母」と呼ばれています。規模の小さい酒蔵では酵母を保管し続けるのは大変なことだからです。研究所の重要な役割の一つです。
また、研究のためにいろいろな酒蔵の醪(もろみ)から酵母を採集したり、天然の酵母を集めたりしています。産業技術研究所の前身の工業研究所時代から集めた酵母がたくさん保管されています。
酵母の開発
バイオ系チームのもっとも大切な仕事は、新しい酵母を開発することです。工業研究所時代に開発した「工業1号」「工業2号」、産業技術研究所になってからは「京の琴」「京の華」「京の咲」などの「京の」シリーズの酵母を開発してきました。
酵母を開発するということ
優秀な酵母を採集して培養するだけでなく、なぜ新しい酵母を開発するのでしょうか?
「お酒のトレンドにあわせた酵母が求められているからです。どんな味や香りが受けるかは時代によって変わってきます。たとえば、昔は燗酒でおいしいお酒、今は冷やで飲むお酒が求められています」と山本さん。
「でも、酵母の開発には10年かかります」と廣岡さん。「だから、トレンドを読むんです。トレンドを先読みして企画するのです。10年後どんなお酒が好まれるのかを考えてどんな酵母を開発すればよいのかを考えます」と続けます。
どのようにして酵母を「開発」するのでしょうか? 10年もの長い期間、どういうことが行われているのでしょうか?
廣岡さんはわかりやすく説明してくださいました。
「まず酵母を培養します。そして、その中で突然変異したものを採り出します。それをさらに培養し、そのなかで世代を超えて安定したものだけを選抜します。いいものが出来ても、その次の代やさらに次の代でその性質が失われて元に戻ってしまうことが多いからです。これを何回も繰り返していきます」
とても地道な作業の繰り返しです。日本酒用の酵母は、だいたい3日で1世代がすすみます。たとえばお米などと比べると断然早く世代を重ねていきますが、いいものが出るのはなんと1億から10億分の1の確率!
遺伝子技術で効率化
最近は遺伝子技術で酵母の選抜がとても効率的になりました。ゲノム解析(遺伝子情報を解読し、コンピュータを使って解析すること)を活用して、酵母の遺伝子とその特徴をマッピングしているとのこと。
このマッピングで、たとえば「このタンパク質がりんごのような香りの成分を出す」ということがわかると、突然変異した酵母の特徴を効率よく知ることができます。
現在、日本酒づくりにはさまざまな酵母が使われていますが、実は遺伝子の観点から見ると、とても似かよっています。
「**いま全国で使われている酵母のほとんどが、きょうかい6号と呼ばれる酵母とゲノムがとても類似しており、親戚のような関係です。**とても狭い範囲のバリエーションの中にあるのです」と廣岡さん。
酵母と酒造り
お話は、酒造りの技術へと進みます。
酒造りの工程の中で、酵母を繁殖させる必要があります。そのためには酒母とよばれる発酵のスターターを使うのです。まず小さい量で酵母を十分に繁殖させてから、大きな仕込みタンクで繁殖させ発酵を進めます。
酵母は酸性の環境のなかでより繁殖するので、酒母を強い酸性に保つ必要があります。そのために乳酸菌を使って乳酸を作らせる「生酛(きもと)造り」と呼ばれる方法と、最初から乳酸自体を加えて酒母を酸性にする「速醸酛造り」と呼ばれる方法があります。
一般に生酛造りのほうが技術力が要求され、手間がかかります。一方で速醸酛はより安定した酒造りができる方法です。
近年、手間と技術が必要な生酛造りを採り入れる酒蔵が増えてきているといいます。その理由を、山本さんはこう説明してくださいました。
「ヨーロッパでは、ワインを造るときに乳酸を使うと、添加物扱いになり、本物のワインだと認められません。日本酒をヨーロッパに輸出するとき、速醸酛で造ったものだと、ランクが下のものに分類されたり、輸出自体ができないかもしれないです。これは日本酒を輸出する際の非関税障壁になりえます。だから、酒蔵は生酛造りの技術が必要です。技術を確立することが大切です」
日本酒のこれからと地域性
日本酒の輸出の話から、日本酒の将来の話に発展しました。
平成の日本酒ブームの前は、地酒は求めやすい価格のお酒、大手酒蔵はブランドイメージがある高級なお酒、というすみ分けがありました。いまはそれが逆転しているとのこと。
一方で、その地酒の味も全国で均一化しています。地元の米や酵母を使って地域性を出す試みはあるものの、それらの酵母のアウトラインはほぼ「きょうかい7号」「きょうかい9号」酵母のもの。都市部をターゲットにしたマーケティング・酒質設計の結果だといいます。
バイオ研究チームが開発した「京の」シリーズ酵母を使ったお酒をきき酒
このあと、「京の」シリーズを使った2種類のお酒をきき酒しました。それぞれ味と香りにとても特徴を感じることが出来ました。左のお酒は華やかな香り、右のお酒は米やハーブの香りがしっかりしたクラシックな感じのするお酒でした。
「京の」シリーズ酵母
さいごに、「京の」シリーズの特徴です。
京の琴
「京の琴」は洛中にある数少ない酒蔵の一つ、佐々木酒造と共同で開発した酵母です。
「日常楽しめるお酒」を目指した酵母で、香気が高く造りやすいとされている「きょうかい901号酵母」の代わりに使えるように開発されました。その結果、きょうかい901号と同じような造りでより香りの高いお酒を造ることができるようになりました。
京都府下では半分くらいの酒蔵、京都市内ではほとんどの酒蔵で使われています。冷やで吟醸香が楽しめるお酒、できたての新酒でおいしいお酒を造るのに向いています。
京の華
日本酒を何年も熟成させる古酒を冷やで飲むのに適しているお酒ができます。
京の咲(さく)
冷向け、香りは少ないが味がしっかりしたお酒を造ることができます。
いま開発中の酵母は燗酒向け
最後に、現在開発中の酵母についてお話していただきました。
10年前から開発を行い、あとすこしでリリースされる酵母です。実際にすでにある酒蔵で試験的に醸造しています。
10年前に今のトレンドを予測して企画した酵母ですが、つくりだすお酒は燗酒向きで香りが少なめのものです。海外展開を視野に入れて企画されました。
「もともとアメリカでは日本酒といえば Hot Sake、つまり燗酒で飲むのが主流で、いまでこそワイングラスを使って冷たい状態で飲むこともでてきたが、まだまだ主流は燗酒」と山本さん。
香りが高い吟醸酒だけでなく、多様な日本酒が好まれるようになってきた今、10年前のトレンド予想はかなり当たっているのでは、と思いました。
おわりに
今回山本さんと廣岡さんにお話をお伺いして感じたのは、お二人とも情熱にあふれている方だということでした。山本さんは熱く、廣岡さんは静かに情熱を表現されていました。
酵母のこと、日本酒のこと、日本酒業界のこと、日本酒のアピールのこと、日本酒の将来のこと、すべてに情熱をお持ちで、同時にとても広い視野をお持ちだと感じました。高度な技術と情熱の両輪が京都の酒造りを支えているのだと実感しました。
日本酒の製造過程での分析のブレイク・スルーや日本酒の消費者へのアピールなど、お伺いしたお話の中で入りきらなかったものも多くありますが、まず酒造りの要の一つ「酵母」のことを知っていただけたらと思い、この記事をまとめました。
最後になりましたが、長時間お話をしていただいた京都市産業技術研究所バイオ系チームの山本佳宏さん、廣岡青央さん、そしてこの取材をコーディネートしていただいた京都市産業観光局の萩原孝一さんに感謝の言葉を述べたいと思います。