4. 私の酒造りヒストリー、無添加山廃との出会い|不老泉 上原酒造杜氏・横坂安男さんインタビュー

4. 私の酒造りヒストリー、無添加山廃との出会い|不老泉 上原酒造杜氏・横坂安男さんインタビュー

酒造りとの出会い

横坂さんは1960年、群馬県吾妻郡中之条町で生まれました。中之条町は新潟県と長野県に接する県境の町、関東平野から標高1000メートル級の山々に迫る位置にあります。

中之条で少年時代を過ごした横坂さんはその後上京し、東京農業大学の醸造学科で学びます。最初から酒造りを目指していたわけではありませんでしたが、酒造りの実習がきっかけで酒造りの世界に魅せられ、酒造業界に進みます。

横坂: 農大の学生だった時に食品特別実習というのがありました。2週間の実習です。講義じゃなくて実際に現場で。優・良・可・不可の評価は現場の人にいただくんですよ。

それで、酒造りの現場を知って、職人さんたちと寝食をともにして、魅了されました。それで「自分の親父が毎晩飲んでいる酒ってどんな人が造っているんだろう」と思うようになったんです。

地元の中之条町のあそこに貴娘酒造というのがあるなと。そこが私が最初に勤めた酒屋です。

―― そこから横坂さんの酒造り人生は始まったんですね

横坂: そうです!

貴娘酒造で触れた「二刀流の生き方」

横坂さんが最初に入った貴娘酒造の五十嵐武明杜氏は専業米農家でした。夏の間は農業に携わり冬の間だけ酒造りをする杜氏さん・蔵人さんが多い時代でした。

横坂: 素材を知らずして酒は造れないんです。その点で専業米農家の方にはかなわない、と。「こういう人が米も酒も造るんだ」と納得しました。

酒にしびれて、人にしびれて、もうしびれっぱなし。俺の行き場所はここだ!と思いました。

本業と二刀流、半農半酒。「たまんない!」と。その中でも誰でもが杜氏になれないけど、ハングリーさが土台にあると。

話す横坂さん

15年かけて杜氏に

その後も横坂さんは徒弟制の中で厳しい修業を重ね、酒造りを率いるリーダー、杜氏になります。

横坂: 私は杜氏になるまでに15年かかっていますから。16年目ですから、自分が杜氏という形で図面を書いて、人を使わせてもらって酒を造るというのは。

自分とすれば、37歳で杜氏になったというのは、裏を返せば15年もかかっているわけですよ。杜氏制度は、昔はもう、本当にピラミッドですから。

でもね、自分は「酒も造るけど人も作る」という中にいるわけですよ。

杜氏制度の中には、「本来のものづくりは、酒も造るけど人も作る」って、そういう方がしっかりいて。

暖簾分けした弟子たちが、亡くなった杜氏さんのお墓を建てるくらいの。

そういった歴史というか、酒造りの職人たちのここ、マインドのね。

(横坂さんは「ここ、マインド」と言う時、自分の胸を思いきり叩きました。いい音がしました)

自分が杜氏になれたのは、制度の中にいながら酒造りに向かい合って、諦めずに来ることができたからだと思ってます。

職人の世界は、環境を自分で作っていく厳しさがあります。「いつかは杜氏になる!」と諦めずに真摯に酒造りと向き合うんです。

無添加山廃との出会い

横坂さんはその後、「常きげん」の鹿野酒造に入り、能登杜氏四天王の一人、農口尚彦さんのもとで働きます。横坂さんの役割は酒母担当の酛屋(もとや)でした。

そのころ横坂さんは「無添加山廃造り」に魅了されるようになります。

―― その後、無添加山廃を手がけられたのですか?

横坂: いまの上原酒造に来てからがはじめてだったんですけど、その思い、蔵付き酵母で山廃造りをやりたいという思いはありました。

私の師匠の農口杜氏がね『魂の酒』って著書の中で「いつかは自分で蔵付きの酒を造ってみたい」というのがあって。

魂の酒』では農口杜氏が酵母の発酵のコントロールを見誤り、添加した酵母を育てることができずに野生酵母が繁殖してしまったというエピソードがあります。

「野生酵母を使ってやったから、逆に人間が楽しむ味が濃くなった。その味というものはね、オリゴ糖というブドウ糖と違って幅がある糖が残っとるんです。これがあったから酒に味が出て、幅が出たんです。(中略)とにかくそれを市場に出したらね、お客さんが、うまい、うまいとなった。結果的にはいい酒造りをしたわけです」―『魂の酒』p.45.

横坂: あーやられたと思ったらば、その酒は良かったと、その著書に書いてあるわけですよ。

次回は、25年以上無添加山廃造りを続けていた上原酒造の山根弘杜氏との出会いのお話です。

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