インタビュー

9. 未来|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

9. 未来|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

かわつる、かわる — 「かわつる14」のラベルは他のものと比べてずいぶん違った印象ですね これはみなさん、「かわつる」じゃなくて「かわる」って読める、っていうんですけど、川鶴がこれから変わっていくよ、とこっそり入れています。 — 右に余白が多くあるのは? 「未来」なんですかね。 — 日本酒の未来? やっぱり日本酒ってすごい技術だって思うんです。こんなに精巧な技術ってなかなか無いな、って思うんです。伝統的な麹造りだったり、いろいろな高度な技術に支えられていて。 日本ってそういう発酵食品での複雑な味わいとか料理が全部ありますから、その中の一つ、お酒ということで続けていきたいな、って思いますね。 飲み続けていってもらえるように、手にとってもらえるように、造りつづけられるように。そこをやっぱりやっていきたいと思ってますね。それには、でも、なかなか経験が足りない、技術が足りない、時間が足りない。 川鶴の未来、日本酒業界の未来 いまのうちの杜氏はもう70歳近いですから、近いうちに自分たちで造っていかなければならなくなりますので、そこも見据えていかなけ
日本酒コンシェルジュ Umio 江口崇
8. 挑戦してはじめて分かったこと|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

8. 挑戦してはじめて分かったこと|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

オープンな日本酒業界 藤岡さんが酒造りを教わったのは、今まで勤務した酒蔵の杜氏さんや蔵人さん。でも日本酒業界では会社の枠を超えた技術交流がとても盛んです。 藤岡さんも他の蔵の酒造家の方から教わったり、教えたりしたりして切磋琢磨しています。その中で京都・伏見にある北川本家の杜氏、田島さんの言葉は藤岡さんの酒造りに大きな影響を与えたといいます。 日本酒業界って不思議なくらいオープンなんですよ。結構、横のつながりで教えたり教わったりできるんですよね。食品業界の方はびっくりしますね。 — それって企業秘密ではないんですか? なんでしゃべるかというと、みんな絶対真似できないと思っているから。酒蔵ごとに水が違うし、気候が違うし、環境が違うし、そもそも違うことだらけだから。全く同じ方法で造っても、違う蔵でやれば同じものはできないんですよね。例えば米の状況が違えば、聞いてきた話は適用できないんですよね。 それこそ、やっぱり、自分の経験と自分の勘と自分の応用力がないとできないので、なので、わりと日本酒の業界はしゃべりますね。 — 藤岡さんも教えたり教わったりするんで
日本酒コンシェルジュ Umio 江口崇
7. 怖くて仕方がなかった|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

7. 怖くて仕方がなかった|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

怖くて仕方なかったけど、一本やってみた — 低いアルコール度数で原酒を造ることは難しいと聞きましたが 低いアルコール度数で原酒を造ることは難しいです。醪の管理をきちんとしていないと発酵が止まってしまったりしますし、単純に度数が低い状態で絞ると、香りが変わってしまったり、リスクもたくさんあるので、そこを見極めて作っていくというのは、大変難しいです。 ずっとつきっきりでした。 はじめてなので、やっぱり分からないところが多かっですね。それで、毎日分析をしながら、経過簿(醪の状態を分析したものを記録したもの)と醪のタンクとにらめっこしながら、ずっと造っていましたね。 熟練の杜氏さんはある程度間隔を開けて分析したりするのですが、私は一年生だったので、毎日分析しました。 もう、生きた心地がしない一ヶ月でしたね。 仕込中は、例えば麹をつくるにしても、自分の思っている麹にするにはどうしたらいいかとかがわからないですから、夜に何度も醪を見に行ったりしました。仕込中はほとんど家に帰らずにいるような感じでした。 だけど、はじめてタンク一本全部造って、世の杜氏さんたちのおっしゃ
日本酒コンシェルジュ Umio 江口崇
6. かわつる14|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

6. かわつる14|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

はじめて自分で造りの設計・指揮をした「かわつる14」 2015年に、藤岡さんははじめて醸造の責任者としてひとつの仕事を成し遂げました。「かわつる14」がそのお酒です。 — 「かわつる14」というお酒について教えて下さい これは今年はじめて造った日本酒です。 私、ずっと日本酒にたずさわってきたんですけど、「酒母をつくる」とか「麹をつくる」とか部分部分での仕事をしてきたんです。自分で全部配合を作って、お米の吸水歩合も決めて、醪の管理もしていくというのは、今までやったことがなかったんですけど、今回はじめてさせてもらいました。 — はじめて設計・指揮をしたお酒ということですね そうです。いままで、例えば「おいでまい」という米を使ってお酒を造るということだったら、「こういう感じの味わいでコンセプトはこうですよ」みたいなことはやっていました。 実際にお米の吸水を見たり、麹をつくったりということは、杜氏さんがしてくださっていました。この現場作業も含めてやらせてもらったのは、この「かわつる14」がはじめてですね。 — 長年の夢がかなったのですね はじめての
日本酒コンシェルジュ Umio 江口崇
5. 讃岐くらうでぃ|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

5. 讃岐くらうでぃ|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

ジョッキでごくごく飲める日本酒「讃岐くらうでぃ」 その後も藤岡さんは日本酒への「入り口」になる商品を開発していきました。その中でも低アルコール日本酒の「讃岐くらうでぃ」は日本酒を飲まない若い世代に人気の商品です。 — その後はどんなお酒を開発したのですか? 香川には「骨付鳥」という郷土料理がありまして、本場の丸亀市が普及をしようということで、「このラベルを使った日本酒を出してください」という話があったんです。 「既存の製品にラベルを張り替えるだけでいいですから」、とのことだったんですが、「えー、骨付鳥に普通の日本酒は合わないですよー、ごくごく飲めんし」ということで、「どうせやるんだったら中身の開発からします!」ということで開発しました。 「骨付鳥」はもともと養鶏が盛んだった香川県丸亀市の郷土料理。鶏肉をにんにくとスパイスで味付けしてオーブンや釜でじっくり焼いたもので、とても香ばしくしっかりした味わいのある料理です。 香川県丸亀市の骨付鳥公式サイト 骨付鳥みたいな辛いもので一番合うのはやっぱりビール、っていうイメージがあって、ジョッキで「ごくご
日本酒コンシェルジュ Umio 江口崇
4. ほの苺|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

4. ほの苺|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

いちごの日本酒、「ほの苺」 藤岡さんが川鶴酒造に入って最初に手がけたお酒は「ほの苺」日本酒といちごを使ったリキュールでした。 「ほの苺」は予想に反して大ヒット、四季を通して4種類のフルーツを使ったリキュールへとシリーズ化されました。 — その後は何をされました? 春にちょうどいちごのお酒の試験製造の話があったので、それをやりました。冬からは蔵の造りの手伝いをさせてもらいながら、入って1年後の2月にはじめて、「ほの苺」というリキュールを出しました。 それが思いのほか、おかげさまで爆発的に売れました。1000本くらい詰めたら余るくらいかな、と思っていたんですけど、蓋を開けてみたら発売から3ヶ月で7000本くらい売れたんですね。 こういう商品で皆さんが反応してくださるというのがわかって、せっかくだから香川の地元のとれたての果物を使って、四季を通して楽しめるものにしようということで、夏の桃、秋のぶどう、冬のみかんとシリーズ化しました。 — シリーズの人気はどうでした? おかげさまで、全部人気があったですね。お客さんのほうから「ほのシリーズ」って言ってく
日本酒コンシェルジュ Umio 江口崇
3. まず、生き残る|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

3. まず、生き残る|酒造家 藤岡美樹さん インタビュー

大切なのは「生き残る」こと 学生の時にはじめてしぼりたてのお酒を飲んで思った「造って売れる蔵人になりたい」という夢は実現しました。 しかし、つぎに転職した酒蔵で大変なことが起こります。杜氏(酒造りの最高責任者・チームのリーダー)を目指して入った酒蔵が、1度も酒造りをすることなく、たったの3ヶ月で倒産してしまったのです。藤岡さんを含め社員全員が解雇されてしまいました。藤岡さんにとって大きな転機でした。 — 次に入った酒蔵が倒産して、藤岡さんの中で何が変わりましたか? それまでは、「美味しい日本酒を造ってさえいれば、飲んでくれるだろう、売れるさ、やっていけるさ」と思っていたんですけど、本当に目の前で自分の乗っている船が沈んでしまって。そんなことを言っている場合ではないと。 日本の酒蔵はどんどん減ってますし。いまは日本酒ブームみたいな感じで、若い方が飲んでくださっていますけど、それでも、日本酒の一年間の製造量は増えていないんですね。 日本酒を飲んでもらうためだったら、生き残るためだったら、何でもやらないとだめなんだという、決意が生まれました。 川鶴酒造に
日本酒コンシェルジュ Umio 江口崇