もう「変態酒」と言わない〈盃のあいだ nº15〉
個性の強い酒を指して、「変態酒」と呼ぶことがある。でもこれらの酒を造っている方々と話して、もうこの言葉を使うまいと思った。
「変態酒」というジャンルがある。いわゆる「きれいな酒」の対局にある酒。一般的な鑑評会の基準では評価しきれない、個性のある酒だ。オフフレーバーがバランスよく調和していたり、酸味が突出していたり、精米していなかったり、麹ではなく発芽した芽にある酵素を使って糖化したり(ビールみたいだ!)。こんな、香味や醸造法の個性が炸裂している酒を、日本酒ファンたちは「変態酒」と褒めたたえる。
そのような酒に心を奪われ、ついにはその蔵元を訪問したりするのだが、いつも驚くことがある。彼らは共通して「普通」で「素直」なのだ。普通に米に向き合い、水に向き合い、素直に酒を造っている。だれも、突飛なことをしてやろうとは思っていない。ただ、自分の信じる酒を造っているだけなのだ。
縮小していくアルコール市場の中で、「個性を出すこと」は生き残る上で必要なこと。その中で「自分たちの造る酒はどんな酒なのか」を自ら問い、考え抜いている。与えられた環境、米、水、微生物に真摯に向き合い「自分たちの酒」を造っているのだ。
これは、「変人」を例に出すとわかりやすいだろう。変人と言われる人は皆、普通に生きている。決して「変人になりたい、変人になるには何をすればよいか」と問いながら生きているのではない。真摯に、素直に生きることがその人の個性を研ぎ澄まさせ、「変人性」を作り出すのだ。このような変人性、つまり個性は心に響く。生き様が人の心に届く。ときに、「変人に見られたい」と思って突飛なことをする人がいるが、それが許されるのは思春期まで。大人になってそんなことをしているのは、自我の発達をこじらせたただの間抜けである。その偽りの変人性は誰の心にも響かない。
ここでの(いわゆる)「変態酒」は、無垢でピュアで真剣に生きている「変人」と同じなのだ。まっすぐ生きているからこそ、唯一無二の個性が発揮される。だから、「変態酒」という言葉はもう使わないほうがいい。蔵元さんや杜氏さんたちと話し、彼らの酒に対する姿勢を受け止めてから、「褒め言葉としての」という枕を付けたとしても、人を傷つける言葉なのではないかと考えるようになった。
だから、その酒の個性については大いに語るけれど、「変態酒」という言葉はもう使わないでおこう。
きょうも日本酒コンシェルジュ通信にきてくださり、ありがとうございます。酒の個性に乾杯!
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