究極の食中酒「伯楽星」がうまれるまで|新澤醸造店蔵元杜氏・新澤巖夫さんインタビュー 前編
宮城県大崎市で「愛宕の松(あたごのまつ)」「伯楽星(はくらくせい)」を醸す酒蔵、新澤醸造店の蔵元杜氏、新澤巖夫さんのインタビュー。前編です。
新澤醸造店について
宮城県大崎市で「愛宕の松(あたごのまつ)」「伯楽星(はくらくせい)」を醸す酒蔵、新澤醸造店の蔵元杜氏、新澤巖夫さんにお話をお伺いしました。
新澤醸造店は1873年(明治6年)に創業。140年近く宮城県大崎市三本木町で酒造りを続けてきました。しかし、2011年の東日本大震災で蔵が全壊。その中でも酒造りを続けましたが、同年11月に70km離れた山形県との県境に近い川崎町に蔵を移転しました。
インタビューは2016年6月末、多忙な新澤社長のスケジュールの合間を縫って出張先の東京で行われました。
破綻寸前の蔵を継ぐ
歴史ある酒蔵に生まれた新澤さん。何のプレッシャーも感じず、のびのびと子供時代を過ごしました。その後、東京農業大学の醸造学科に進学し、卒業後、蔵に戻ります。
―― 新澤さんは、どのような思いを持って蔵に戻られたのですか?
新澤: 私が戻ったときは、蔵は破綻寸前でした。「夢を持って継ごう」というよりも、「なんとかしなくてはいけない」という思いでした。倒産寸前で、恐怖の中で酒造りをしていたと思います。
なんとなく蔵元だから、ということで醸造学科に進んだのですが、帰ってきたら造りだけではなく、原価計算もやって、発注もやって。小さい蔵だと全部やらなくてはいけないんです。そういう中でだんだん覚えてきたのです。
ひたすら実行、検証、改善を繰り返す
―― それは例えばどういったことですか?
新澤: いい米を買うと、品質がどのくらい上るのか、米を何パーセント多く磨くとどれだけ味として変化するのか、小さな仕込みと大きな仕込みだとどれだけ味が違うのか、などです。
仕込みの大きさでいうと、1トンのタンクを2本仕込むのと、2トンのタンクを1本仕込むのではどう違うのか。そこで、味が違うのであれば2本に分けるべきだし、同じだったら原価が安い2トン仕込みのほうがいい。
そういうことを、データを取って勉強していきました。実際にやってみて、データで検証して。それをずっと繰り返してきました。
「究極の食中酒」はこうして生まれた
全国にファンを持つ「伯楽星」。新澤さんが蔵に戻ってから作った新しいブランドです。当初は酒販店にも相手にされず、まったく売れなかったといいます。新澤さんはそれでも一本筋を通して造り続け、ヒットにつなげます。
―― 伯楽星のコンセプト「究極の食中酒」はどのように考えだしたのですか?
新澤: 2000年頃のことですね。「今、売れているお酒は何か」を徹底的に研究して、「今、必要とされているのはこういうお酒だ」というふうに考えました。
当時、居酒屋で観察していると、後半飲み疲れてくるとウーロン茶を飲んでいる。しかもお代わりをして沢山飲んでいる(笑)。
おいしいと言われるよりも、お代わりが来る日本酒を醸したい。そこで、飲み疲れしない、究極の三杯目を造ろう、と考えました。
そこから、「究極の食中酒」というコンセプトが固まりました。この形で一本筋を通してやっていこうと。当時は無濾過生原酒がブームになっていましたが、自分たちは目立たない酒質で勝負して行こうと。
―― それを市場に問うてみて、どうでしたか?
新澤: もう、まったく売れなかったですね。
―― それをはどうしてだったんですか?
新澤: 酒販店さんや飲食店さんには「インパクトがない」「買う理由がない」とはっきり言われました。
淡々と努力を積み重ねる
―― それをどのように乗り越えていったのですか?
新澤: それはもう、淡々と繰り返していっただけですね。酒造りにはウルトラCとか、裏技とかがあるわけではないので。造って、検証して、改善していく、それを淡々をやっていきました。理解してもらえるまでには、本当に長くかかりましたけど。
それでも、だんだんと「食中酒」という言葉を使ってくださるところも増えてきて。当時は食中酒という言葉自体なかったので、仕方ないですよね。
―― 技術が上がってきた、という手応えはいつごろからありましたか?
新澤: 手応えは全然ないです。今もない。日々、課題の種類は変わっていくんですよ。永遠に「納得する」というのは無理です。
100人が100人、「おいしい」と言ってもらえるのは不可能かもしれないけど、96だったものを97にするとか、そういう努力を永遠に続けていく、という感じです。
―― それから営業も重ねられたのですね
新澤: 営業してもまったく売れませんでした。最初はたくさん回りましたけど、なかなか理解してもらえなくて。
とにかく、蔵にこもりました。一にも二にも技術をあげる事だ。正統派でやろう。答えは現場にあるから、限界まで頑張ってみよう。精一杯やってだめだったらそれでいい。背水の陣で臨んでいました。そしてそれをひたすら続けていました。
「究極の食中酒」が理解され、知られるようになった
伯楽星を世に出してから3年後、2003年に雑誌「Dancyu」の特集で「隠れた日本の銘酒」の一つに選ばれました。これがきっかけで、「究極の食中酒」伯楽星が認知されていきます。
新澤: 伯楽星を世に出してから3年目でしたね。Dancyuの「隠れた日本の銘酒」で山口県の同級生の「貴」さんが一位で、うちが三位で。
そこで「伯楽星」という名前でデビューしてから、少しずつ知られていきました。同級生の「貴」からはだいぶ後方からスタートしているような、そんな形でデビューしました。
お酒のコンディションが一番いい時に飲んでもらいたい
究極の食中酒を目指してうまれた「伯楽星」、新澤醸造店の歴史あるブランド「愛宕の松」。現在はほぼ5:5の割合で出荷されているそうです。それらのお酒の人気を見えないところで支えているのが、徹底した品質管理です。
一番いいコンディションのときに飲んでもらうために、新澤さんは瓶詰め後の日数と保管温度をかけ合わせた数字を品質管理の目安にしています。
新澤: たとえば10度で5日間保管したらは50、室温20度の蔵の中で200日保存したら4,000。しぼりたて生のお酒の場合はこの数値が100に行かないようにするし、火入れのお酒なら1,000がリミットです。
でもマイナス5度の冷蔵庫で200日保存しても劣化度0✕200日で0なんです。だからうちではすべての酒をマイナス5度の冷蔵庫で保管しています。一升瓶からカップ酒まで、全てです。
―― カップ酒も、ですか
新澤: もちろんです。同じお酒でも、一升瓶と四合瓶、カップ酒では、劣化のスピードが違います。だから、それぞれ微妙に調整して出荷しています。それから、季節によっても、飲む方の感じ方が変わってくるので、やっぱり変えてますよ。
それから、全国の酒屋さんを回って、コンディションの悪いものは回収しています。
―― 全国、全部ですか?
新澤: はい、いまは全国で40の酒屋さんに扱ってもらっていますから、大体1ヶ月で全部回れます。車で全国一周して3ヶ月経ったものは回収しています。
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造ったお酒の徹底した品質管理、直球です。ストレートです。そこに至るまでの酒造りの工程にも、実直な姿勢が垣間見えます。後編は新澤さんの酒造りの姿勢についてのお話です。