酒の「余白」〈盃のあいだ 32〉
いい酒には余白がある。料理のための余白と、飲む人の心のための余白だ。
毎週火曜日に配信しているライブで、滋賀県の「神開」という酒を飲みました。とても味わいが深くて、それだけで完成されているお酒でした。でも燗にしてみたら、とても軽やかになって、味わいがシンプルになって、酒に「余白」のようなものがあるのを感じました。
そして、料理を食べたくなったのです。冷たい時は、にぎやかな味わいで料理が入る余地がなかったのですが、温めることでお酒に料理が入る余白ができたのです。どんどん飲み進められるし、料理とも合う。おいしい酒には余白があることを発見した瞬間でした。
僕が思う、酒の余白にはもう一つの意味があって、それは心が入る余白です。
3〜4年前に不老泉のお酒の会がありました。20人弱の人々が集まってお酒を飲んで料理を楽し無イベントです。僕がいたテーブルでは、いつのまにか「不老泉らしさとは何か」という深い対話が始まっていました。お酒の味は酒蔵の蔵元が決めるのですが、飲み手もまた、酒を飲みながら「不老泉らしさ」について思いを巡らせるのです。
このお酒には「心の余白」があるからこそ、僕たちは酒に思いを込めることができるのです。造り手の思い、パッションがいっぱい詰まった酒もいいけど、そのような酒には僕たちは自分たちの思いを込めることができません。不老泉には造り手の思いがこもっているけど、過剰でない。飲み手の心を置くスペースが、ちゃんと空けられているのです。
これを書いていて思い出したのは、ある演歌歌手のエピソードで、思いを込めて歌ったら観客の反応が今一つだったけれども、力を抜いてあまり心を込めずに歌ったら拍手喝采だったというものです。歌を聴く人は、自分の人生、自分の心を歌に映したいのです。だから歌を聴きに来るのです。
歌には余白が必要なのです。聴く人が自分の思い、感情、哀しみ、喜び、寂しさ、そういったものを置くことのできる余白がほしいのです。
同じように、余白がある酒とともにある時、僕たちは自分たちの心を酒に込めることができる。そういう酒が、いい酒だと僕は思います。
このエッセイは、YouTubeで配信している、日本酒コンシェルジュのラジオをもとにしています。
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